私はおはぎに帰っていく


 その昔、母と私の間には、とっておきのお楽しみがあった。


 私は大阪市東住吉区で生まれ育った。近鉄南大阪線と平行に駅前から北に伸びる商店街での思い出は、私の幼児期から成人するまでの記憶の中を大きく陣取っている。迷子になり家までパトカーで連れて帰ってもらった警察署、財布を落とした路地、ポマードの匂いのする散髪屋ではなく甘い香りのするヘアーサロン、はじめてのアルバイト先の本屋。中に入ると最低30分は足止めされる手芸材料店。 もう何十年も経つというのに、目を閉じると懐かしい商店街の映像フィルムが今でもカタカタと再現されていく。

 

 思えばあの頃、母と商店街に出かけることは、屋根裏に居ついた子猫の世話をするのと同じくらいに重要なイベントだった。 商店街南口を入ってすぐの活気付いた市場。肉屋、八百屋、金物屋、草履屋といったお店が所狭しと並んでいる。贔屓の店は決まっていて、幼稚園の同級生よしこちゃんの両親がやっている魚屋さんにはいつも立ち寄った。私が一緒だと何かをオマケにつけてくれるので、ちょっとだけ自分が偉くなった気がした。

 

 市場の店で買い物をするとくれる点数シールを台紙に貼り付ける。1枚の台紙に貼れるシールは確か100枚だった。隙間なくシールを貼った台紙を何枚か集めて事務所に持っていくとPLランドジャンボプール無料入場券が貰えるというもので、夏になると私に任命される責任重大なお仕事でもあった。

 台紙を埋めるシールが足りないと、事務所前の駄菓子屋さんで飴やらガムやらを買って点数稼ぎをする。これでプールにも行けるし、好きなお菓子を買ってもらえる。楽しくて嬉しくて、わずか数十円相当の駄菓子を手に取ったり戻したりしながら一生懸命選ぶ。 こんな時、母はよく私に「早よしぃや。アンタはいつもゆっくりさんやから」と柔らかく笑いながら言ったものだった。




 市場を出てからも買い物は続く。鰻専門店の『う巻き』は絶品だった。鯨肉専門店もあって、新鮮なベーコンがあったら母はいつも父親用に一舟だけ買った。天ぷら屋の三色はんぺんはいつも売り切れていて、角の肉屋では揚げたて手作りコロッケを店前で販売していた。一個35円。油紙に包んでもらってホフホフ言いながら食べる。おやつセンターのたい焼きもあったかな。


 けれど、いくら楽しくても商店街の真ん中あたりまでくると買い物袋が重くなって手がしびれてくる。その絶妙なタイミングで現れるのが、疲れた体を癒し、大して疲れていない心を更に満たす甘味処「まえだ」。この店の一番のお気に入りは何といっても田舎風おはぎ。店内で食べることもたまにはあったけれど、大抵は店前に用意された長椅子に腰掛けて休憩がてら食べたり、急ぐ時には2個入りパックを買って帰った。


 田舎風おはぎは大きくて不細工だった。丁寧に作られた粒あんの中には、大きすぎず小さすぎ、やんわりと甘いもち米の団子が包まれている。出来立てのおはぎは箸がすっと入る柔らかさ。他の店よりも白っぽい大粒あんがたっぷりで小豆そのものの味がする。厭味がないので一口、また一口と手が出てしまう。

「こんなん食べたら晩御飯が食べれんわ」

 家に戻ってから、そう母とごちりながら、夕食前におはぎを突っつくのが好きだった。なぜか父も姉もいなくて、おはぎを食べるのはいつも母と私。そのうちに、おはぎは母と二人で食べるものになっていた。食事は残さないで全部食べるのが原則。そんなの分かっている。でも、おはぎが目の前にあるのだ。食べない理由にならない。共犯者二人、背徳感とその裏側にくっ付いた充実感こっそり味わう。そしていつも

「やばい。またしても食べてもた……」 「あぁ、ウマかった!ウシまけた!」

と二人して笑うのだった。

◇◇◇

 あれから暫くして私が20歳の頃、私たち一家は別の町に引越した。引越し先は同じ鉄道の沿線にあるので、あの商店街にも行こうと思えばいつでも行けるのだけど、自分の世界が広がるにつれてあの世界は小さなものになり、当時の友人に会うためや、何か特別な用があって下車する以外、足を運ぶこともなくなった。あんなに賑やかでキラキラしていた商店街の出来事は、次第に思い出アルバムの中でひっそりと色褪せていった。


 時が過ぎ、人並みに学業を終え就職し、退職した24歳の冬、私はスペインへと飛び立った。出発の当日、空港のロビーで緊張しながらも期待に胸を膨らませる私と、不安そうに寂しさを胸に押し込め見送る母の姿があった。

「心配せんでもいいよ、大丈夫やし。一年で帰ってくるから」


 大きく手を振って旅立ちはしても、大丈夫なわけがなかった。到着早々、国際電話の向こうから聞こえる母の声を聞くと、母に会いたくてたまらなくなる。涙が詰まった鼻声はすぐにバレてしまう。自分が泣くと母が泣くのは目に見えている。


「なんか、風邪ひいたみたいや」


母の声を聞くたびに私は何度も何度も風邪をひいた。


 一年後、出発した時と同じ空港に着陸した私を待っていたのはやっぱり母だった。


「おかえり。大変やったやろ。お疲れさん」


 たった一年間会わなかっただけなのに、母は少し歳をとり、小さくなった気がした。私は「ただいま」と素っ気無く言ってから、乗り継ぎの飛行機が遅れたとか、機内が寒かったとか、取り留めのない事ばかり話した。


 本当は、話したいことが沢山あるのに言葉が渋滞してうまく出てこない。いざ、面と向かって話すとなると素直に話せない。悔しいけれど今も昔も変わっていない。もどかしくて唇をきゅっと合わすと余計に話せなくなる。 ずっと会いたかったこと、一人で寂しかったこと、心配させて申し訳なかったこと、母が大好きだということ……。大切な事は何も言えないまま重いトランクを引きずって空港バスに乗り込んだ。

 すると次の瞬間、母がごそごそと袋から引っ張り出してきたものがあった。


 あの店のおはぎだった。


「ちょうど商店街に行く用事があったから。アンタ、好きやったやろ」


 今さら商店街に行く用事なんてあるわけがない。あの商店街の店で売っている大抵のものなら他の店でも買える。ただ一つのものを除いて。


 静まりかえった空港バスの中でパリパリとおはぎの入ったポリ容器の音が響く。見ると、見覚えのある大きくて不細工な田舎風おはぎが二つ入っている。それだけで、おはぎの優しい甘味が脳裏に浮き上がってくる。

 

 小豆の食感たっぷりの粒あんに包まれたほんの少しだけ甘くて柔らかい米団子。口の中でホロホロと溶けていく思い出の味。商店街の活気、母の声、母の言葉、繋いだ手の温度。

(あぁ、やっと帰ってきた……)


 思い出す度にあの懐かしい背景や色彩、声や音、香りや味わいに五感を震わせずにはおれなくなる絶対的な存在。人はそこに帰っていく。


 たとえその存在が姿形を失っても尚、決して無にはならない尊い光の集合体ようなもの。私が生きた命の軌跡がそのまま残っている世界。そこが私の帰るところ。


 透明な液体のベールが容赦なく目を覆う。もう手遅れだった。

「お母さん、家で、一緒に食べようや」


 どうやら、また風邪をひいてしまったみたいだ。鼻水をごまかしながら、急いでおはぎの入ったポリ容器をしまった。私の横で母が昔と同じように柔らかに笑っていた。




 海外に移住し四半世紀を過ぎた。時に日本に「帰国」し、そしてスペインに「帰国」する。でも、私が帰る所は生まれ育った国や家でもなければ、今現在住んでいるそれでもない。


 日本人ではあっても、近い将来、日本には私が戻ることの出来る「場所」は事実上なくなってしまう。けれども、それは帰るところが無くなったのではない。私が帰るところは、いつまでも私の記憶の中にちゃんと残っている。 ※この作品は、2020年5月にnoteに公開されたものをリライトしたものです。

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