あたなはリンゴをどう味わいますか





『何のために食べるんだろう』 理由はどうあれ、そう思ったことがある人は少なくない。そして人がそう思う時、その気持ちからすぐ手の届く場所にあるのは「食べたくない」という感情だったりする。


 

第一志望の大学には入れなかった。特別な目的もなく選んだ進路上には、他人が言うほどのキラキラとした輝きはなく、先に進めば進むほどトンネルの出口が遠退き、光が小さな点になっていった。

毎日スケジュール通りに3時間かけて通学し授業を受ける。そしてまた3時間かけて帰宅する。日によっては食事の時以外、誰とも口を開かない日もあった。色も香も温度をも失った無機質な毎日が、自分には関係なく勝手に過ぎていった。 

日に日に自分の中の「なぜ」が消えていく。 何のために生きるかわからなくなっていく。 何のために食べるのだろう。 食べなくて済むならいいのに……。 

食べなくてもいいじゃないか。 食べてもどうせ太るだけだし……。 食べない。 食べたくない……。 当然のように行き着いた答えがこれだった。 けれども、動物の生命力というのは貪欲だ。食べたくないのに一たび食べはじめると止まらなくなる。身体が生命維持に必要なエネルギーを強引に吸収しようとする。 味も何も感じない。手が勝手に食べ物を自分の口に押し込む。ただ不思議な事に、いくら食べても、脳が食べていることを全く感知しないのだ。 味わうことのない食事が乱暴に胃の中に落ちていく。やがて、自分の身体機能が動作不良を起こす。心臓がバクバクしても止められない。それでも食べる。限界まで胃に食べ物を詰め込む。

もう、食べないとといけないとか、食べたくないとかいう感情は消えて、ショートした機械のように自制が効かなくなってしまう。そして、ようやく自分の体の最期を脳が感知し危険を知らせる。そう簡単には死ねない、死んではいけないと思い知らされる。飲み込んだ黒い自責の塊を嗚咽と涙と胃液と一緒にすべて吐き出す。ガンガン割れるように痛む頭の中で叫ぶ。 生きたい! 驚いた。自分の意思ではない、けれども明らかに自分の体の中から湧き出る感情があった。「食べたくない」の先にあったのは、意外にも真逆の「食べたい」ではなく「生きたい」だった。


 

人間や動物は、不足を満たすためになんらかの行動や手段をとりたいと思い、それが満たされることによって得られる満足感を求める「欲」を持っている。そして、一般に言われる性欲・食欲・睡眠欲という人間の三大欲求の中でも食欲は、生活に一番密着しているものだと思っている。

なぜなら、食欲は、一生を通して一番長い時間をかけて自分の意識下で働きかける欲求だからだ。

一日の平均睡眠時間8時間とすると一生の三分の一を寝て過ごしていることになるが、眠気は嫌でもやってきて、寝ている間に自分の意識をコントロールすることはできない。

性欲は動物としての生殖を目的とする欲求であり生殖に適した時期にもたらされる。欲求の強さにも個人差があり、男女の差もあれば極端な話、別になくてもいいと思っている人すらいる。 食欲を満たすには、単に空腹を満たし、体を維持するのに必要なエネルギーを供給して生理的な満足を得るだけでない。食べることによって精神的な満足をも得てこそ満腹を感じる。 同時に、その精神的満足を自分次第で手に入れることができるのが食欲なのだと思う。



 

24歳の時にスペインの土地を踏んだ。自慢にも裕福とは言えない生活が始まって間もなく、ワンコインでお腹いっぱい食べられると聞いて行った定食屋は、定職のない日払い労働者の人たちに格安の食事を提供する場所だった。

日替わりスープの中のパスタはお粥のようにトロトロに溶けていたけれど、店のおばさんの笑顔と共に空っぽのお腹の中を充分に温めてくれた。偶然、隣の席に座ったおじさんの手はドス黒く皺だらけで、無言で手渡された洋ナシは泣きたくなるほど甘かった。 友人の父親は、毎年秋になると畑の胡桃の木から採れる実で胡桃のリキュールを作った。リキュールは年月を経るごとにコクが加わる。濃いコーヒー色が更に深みを増した頃になると、アルコールの濃度を忘れさせるほどの丸みと舌の上を滑るビロードのような滑らかさを生み、胡桃独特の甘味と香ばしさを際立たせた。 「これ、売れるんじゃない?こんなの飲んだことない」という私に、「自分たちのために手塩にかけて少しだけ作るから美味しいんだ。売るもんじゃない。子どもと同じなんだ」と友人は懐かしそうに目を細めて言ったものだ。 決して豪勢ではない、どちらかというと質素で見栄えのしない普段食。その中にこそ人々の暮らしや生き様やがじんわりと溶け込んだ滋味深さがある。何を食べるのかということ以上に、どう味わうのかが大切なのだと知る。 母が子どもの頃、母の父、つまり私の祖父がイチゴを育てていた。そして母はある日、父親が自宅の肥溜めから掬い出した自分たちの排泄物を肥料としてイチゴに散布しているのを見てしまったらしい。

母と叔母は、自分たちの排泄物で育ったイチゴがどうしても食べられず、父親にこっ酷く怒られた上、頑固者でいつまでも食べなかった母には拳骨が落ちてきたらしい。 結局、母は根負けし、丁寧に洗って口に入れた小さな真っ赤なイチゴは悔しいくらいに美味しくて、以来、自分の家の畑で採れたイチゴ以外は食べたくなくなったのだという話をふと思い出した。




遥か遠い昔から人はこうして他の生き物の生命食べ、それによってエネルギーを得て生命維持をしている。そして本来、人もまた、自分が得たものを別の形にして自然に還元していく。

この連鎖の中にしっかりと自分を置き、食に対するリスペクトを忘れず、同時に、そこにある自然や人やその生き様を五感で感じ取りながら味わうことが、心を震わせ、人生を肥やし、命を繋いでいく。

生きるということはこういうことなのだと感じる。 『生きるために食べるのか、食べるために生きるのか』のどちらなのかと問いかける。 私の答えは、『生きるために食べ、食べるために生きる』


目の前にリンゴが一つある。 あなたはどう味わうのだろうか。


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